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Reading Note

『リバーズ・エッジ』と河口の情緒

都市が吐き出したもののそばで

川の終わりには、いつも少しだけ名前のつかないものが残っている。

海へ流れ出す直前の水面には、都市が吐き出したものが浮かんでいる。ペットボトルか、発泡スチロールか、白く乾いた破片か、遠目にはよく分からない。沈んだと思うと、また浮かび上がる。岸に寄ったかと思うと、また離れる。

それは、もう都市の中にはない。

けれど、まだ完全に海へも出ていない。

河口とは、そういうものが一度だけ留まる場所である。

岡崎京子『リバーズ・エッジ』でまず立ち上がるのは、物語ではなく、場所の感覚である。

川のそば。学校の外。街の中心ではないところ。人が集まっているようで、誰も本当には同じ場所にいないところ。

そこでは、日常と異物があまりにも近い。

制服、会話、恋愛、空腹、退屈、見てはいけないもの。そうしたものが、ひとつの強い事件としてではなく、同じ平面の上に置かれている。

『リバーズ・エッジ』の怖さは、何かが壊れていることそのものよりも、壊れているものが、ほとんど普通のものとして置かれていることにある。

河口という場所

河口は、中心ではない。

街のにぎわいから少し離れ、けれど完全な自然でもない。工場、橋、道路、排水、護岸、雑草、夕方の光。人間が作ったものと、人間が忘れたものが混ざっている。

そこには、終わったものがある。

しかし、それは消えたものではない。

捨てられたもの、流れてきたもの、置き去りにされたもの、何だったのか分からなくなったものが、まだそこに残っている。

『リバーズ・エッジ』の「エッジ」は、単に川の縁という意味ではない。

それは、社会の縁であり、日常の縁であり、身体の縁でもある。

中心には入れない。

けれど、完全に外へ出ることもできない。

その中間に、登場人物たちは立っている。

都市の代謝

向こう岸には工場がある。

煙突からもうもうと煙が上がり、橋の上には車が並び、人々はどこかへ向かっている。働き、移動し、消費し、また戻っていく。

都市は、ひとりの身体ではない。

けれど、ひとつの大きな身体のように動いている。

誰かが眠っているあいだにも、別の誰かが働く。誰かが捨てたものを、別の誰かが運ぶ。何かが燃やされ、何かが作られ、何かが消費され、何かが川へ流れ込む。

その末端に、河口がある。

都市が活動するかぎり、そこには何かが流れ着く。

そして、その流れ着いたもののそばに、人が立つ。

その人もまた、都市が吐き出したものなのかもしれない。

そう言い切るには少し強すぎる。

けれど、『リバーズ・エッジ』の人物たちは、どこかそういう場所にいる。

社会から完全に排除されたわけではない。学校にも行く。会話もする。恋愛もする。生活もある。

それなのに、どこかで都市の中心的な流れから外れている。

外れているというより、中心と外側のあいだに漂っている。

身体と漂着物

川辺にあるものは、しばしば何か分からない。

ただのゴミかもしれない。

何かの破片かもしれない。

もとは別の形をしていたものかもしれない。

この「分からなさ」が、妙に身体に近い。

都市の中で身体は、いつもはっきりした名前を与えられている。学生、恋人、友人、家族、消費者、労働者、女の子、男の子。

しかし、川の縁では、その名前が少しだけ剥がれる。

身体は、役割ではなく、ただそこにあるものになる。

汚れ、濡れ、冷え、傷つき、見られ、見られないまま、そこにある。

『リバーズ・エッジ』にある身体の感覚も、それに近い。

美しい身体、欲望される身体、傷つく身体、痩せた身体、見られる身体、見えなくなる身体。

それらは、説明されるより先に、そこに置かれている。

読者は、それを意味として理解する前に、まず見てしまう。

縁に立つこと

川の縁に立つと、こちら側と向こう側が見える。

向こう側では、都市が動いている。

こちら側には、何かが浮かんでいる。

そのあいだに、自分がいる。

『リバーズ・エッジ』の感覚は、この「あいだ」にある。

社会の中にいるのか、社会の外にいるのか。

誰かと一緒にいるのか、ただ隣に立っているだけなのか。

それらは、はっきり分けられない。

けれど、その分けられなさの中にしか見えないものがある。

中心にいる者には、河口は見えない。

ただ流れていく者にも、河口は見えない。

そこに立ち止まってしまった者だけが、都市が吐き出したものを、しばらく見てしまう。

薬の手前にある川辺

薬の名前や効き方について考えていると、しばしば薬そのものよりも前の場所に戻される。

眠れなさ、不安、疲れ、空腹、痩せたさ、美しさ、壊れかけた関係、学校や街にうまく接続できない感じ。

それらは、薬が登場する前から、すでに身体の周囲にある。

『リバーズ・エッジ』は、そうした身体の置かれた場所を描いている。

薬はまだ出てこない。

けれど、薬が必要になるかもしれない身体の手前には、こういう川辺がある。

それだけで、この文章はここに残っていてよいのだと思う。

川辺に残るもの

川は流れる。

都市は動く。

橋の上の車列は進み、工場の煙は薄くなり、浮かんでいたものはいつかどこかへ流れていく。

けれど、河口に立っていた時間だけは、妙に残る。

何を見ていたのか、よく分からない。

なぜそれを見続けていたのかも、分からない。

ただ、そこには何かがあった。

『リバーズ・エッジ』を読むということは、その何かを、無理に名前へ回収しないまま、しばらく川辺に立つことなのかもしれない。