岡崎京子『ヘルタースケルター』でまず問題になるのは、美しい身体そのものではない。むしろ、美しい身体がどのように作られ、見られ、使われ、消耗していくのかという、身体の運用の感覚である。
美しさは、ここでは静かな属性ではない。それは保たれなければならない状態であり、更新され続けなければならない表面であり、他人の視線の中でしか成立しない不安定な制度である。
きれいでいること。
若く見えること。
壊れていないように見えること。
欲望されること。
商品として流通できること。
それらは、ひとつひとつは美容や芸能や恋愛の言葉に見える。けれど、その奥にはもっと強い命令がある。身体は、そのままでは足りない。身体は、作り替えられなければならない。身体は、見られるために整えられ、消費されるために維持され、イメージを再生産するために酷使される。
『ヘルタースケルター』の怖さは、身体が壊れていくことだけにあるのではない。むしろ、壊れていく身体を、それでもなお美しいイメージとして流通させようとする力にある。
見られる身体
身体は、ただそこにあるだけでは済まされない。都市の中で、身体はいつも誰かに見られている。雑誌、広告、テレビ、写真、鏡、他人の目、恋人の目、仕事の目。見られることは、承認でもあり、監視でもあり、商品価値の確認でもある。
『ヘルタースケルター』の身体は、この視線の中でできている。それは自然な身体ではない。自然な身体がない、ということではない。むしろ、自然な身体のままでは商品にならない、という圧力がある。
肌、髪、目、輪郭、痩せ方、疲れの見え方、年齢の出方。身体のあらゆる部分が、修正され、管理され、比較される。美しさは、内側から自然ににじみ出るものではなくなる。それは、維持されるべき状態になる。
しかも、その維持には終わりがない。一度きれいになれば終わりではない。きれいであり続けなければならない。きれいであることを、次の撮影でも、次の誌面でも、次の視線の前でも、もう一度証明しなければならない。
身体は、所有物である以前に、提出物になる。
作られる身体
『ヘルタースケルター』では、身体は作られる。ただ化粧されるのではない。服を着るのでも、髪を整えるのでも足りない。身体そのものが、変更可能な素材として扱われる。
ここで重要なのは、身体改造が単なる例外的な出来事として描かれていないことである。それは極端ではある。けれど、まったく別世界の話ではない。
少しでもましになりたい。見られる身体として成立したい。比較の中で負けたくない。老いを先送りしたい。疲れを隠したい。崩れを消したい。そうした欲望は、日常の中にもある。『ヘルタースケルター』は、その欲望を極端なところまで押し出す。
身体を作ることは、自由のようにも見える。自分の身体を自分で選ぶこと。変わりたい自分へ近づくこと。生まれつき与えられたものから逃れること。しかし、その自由はすぐに命令へ反転する。
変われるなら、変わらなければならない。
きれいになれるなら、きれいでいなければならない。
保てるなら、保たなければならない。
身体は、解放されるのではなく、さらに細かく管理される。
薬で散らされる歪み
身体を保つためには、いくつものものが必要になる。眠りを調整するもの。痛みを鈍らせるもの。不安を散らすもの。疲れを隠すもの。食欲を抑えるもの。気分を上げるもの。崩れを一時的に見えなくするもの。
それらは、すべて薬という言葉に回収されるとは限らない。サプリメント、美容医療、処方薬、注射、点滴、化粧品、施術、メンテナンス。名前は違っても、そこには共通した欲望がある。身体の不都合を、物質で散らすこと。歪みを、ひとまず外から補正すること。
それは、ただの逃避ではない。
人は本当に疲れる。痛む。眠れなくなる。不安になる。食べすぎる。食べられなくなる。鏡を見るのがつらくなる。仕事に向かうために、誰かの前に立つために、今日だけは崩れないようにするために、何かを必要とする。
薬や施術は、その意味で救いにもなる。けれど『ヘルタースケルター』の世界では、その救いはすぐに次の命令へ変わる。
もっと保て。
もっと隠せ。
もっと整えろ。
もっと見られる身体でいろ。
ここで薬は、治療のためだけにあるのではない。身体を、イメージとしてもう一度流通させるためにある。
イメージを再生産する身体
作中には、スターをめぐって次のような言葉が置かれている。
スターというものがしばしばきわめて興味深くあるのは、スターが癌と同様一種の奇形(フェノメン)だからです(part 2, #1, p. 15)
この言葉は、スターを単なる憧れの対象としてではなく、身体とイメージが過剰に増殖した現象として捉えている。スターの身体は、本人だけのものではない。それは、写真になり、紙面になり、広告になり、噂になり、欲望になり、模倣される対象になる。
身体は、そこにあるだけでなく、何度も複製される。『ヘルタースケルター』で恐ろしいのは、身体そのものよりも、その身体から生まれるイメージのほうが長く生きようとすることである。
身体は疲れる。肌は変わる。内側は崩れる。けれど、イメージはまだ美しくあろうとする。写真の中では、まだ壊れていないことにできる。誌面では、まだ完璧に見せられる。広告では、まだ欲望されるものとして配置できる。
身体がイメージを支えているはずなのに、いつのまにか身体のほうがイメージに従属していく。生きている身体よりも、流通するイメージのほうが強くなる。そのとき身体は、自分自身のために生きているのか、イメージを再生産するために動かされているのか、分からなくなる。
都市と美容
この作品の身体は、都市の中でしか成立しない。都市とは、たくさんの人がいる場所というだけではない。比較が発生し、視線が交換され、商品が並び、広告が光り、誰かの美しさが誰かの不足として届く場所である。
都市では、身体はいつも更新を迫られる。昨日の美しさは、今日の安心にはならない。今日の肌も、今日の髪も、今日の体型も、すぐに古くなる。
都市は、身体に未来を約束する。もっときれいになれる。もっと若く見える。もっと愛される。もっと売れる。もっと違う自分になれる。しかし、その約束は、同時に現在の身体を不足として名指す。
あなたはまだ足りない。
あなたはまだ変われる。
あなたはまだ直せる。
その声がやまない場所で、身体は少しずつ自分の輪郭を失っていく。
まだ身体がある
それでも、『ヘルタースケルター』は、身体をただ記号としてだけ描いているわけではない。むしろ、最後まで身体が残っている。
痛む身体。
疲れる身体。
眠れない身体。
崩れる身体。
見られることに耐えきれない身体。
イメージとして流通させられても、身体は完全にはイメージにならない。どこかで抵抗する。どこかで漏れる。どこかで腐敗し、どこかで熱を持ち、どこかで声にならないものを発する。
だからこの作品は、美容や芸能の物語というより、イメージに追い立てられた身体の物語として残る。
身体は作られる。
身体は見られる。
身体は消費される。
身体は補正される。
それでも、身体は身体であることをやめない。そのやめなさが、怖い。そして、そのやめなさだけが、わずかに救いでもある。