Introduction
薬象論序説
薬は、治療物質である以前に、未知の力の名である。それは身体に作用する化学物質であると同時に、まだ起きていない変化への期待であり、努力では届かない場所へ手を伸ばすための記号でもある。
薬は、病を治すためだけに欲望されるのではない。それは、名前の響きとして先に身体へ届き、努力では変えられない部分へ介入し、都市の中で壊れかけた自己を、今日だけは社会に戻すための弱い救済として現れる。
ここでいう名前とは、単なる商品名や一般名ではない。薬名は、効能説明よりも先に、音として、気配として、身体のほうへ到着する。デパス、マイスリー、コンサータ、リスパダール、プロザック。これらの名は、医学的な説明を待つ前に、安心、眠り、集中、制御、異国性、危うさ、回復可能性のようなものを帯びてしまう。薬名は、知識として理解される前に、期待として聴かれる。
その期待は、必ずしも病気の治癒だけに向かっているわけではない。人は薬に、眠れること、落ち着けること、痩せること、集中すること、美しくなること、老いを遅らせること、壊れていないように見えること、自分をもう少し運用可能にすることを託す。薬は、身体の内側に入る物質でありながら、同時に、まだ実現していない自己像へ向かう小さな通路でもある。
このとき重要になるのは、都市の中で、イメージと比較にさらされた身体である。都市とは、単に人が多く集まる場所ではない。そこでは身体が、視線、商品、労働、美容、速度、夜、広告、SNS、他人の生活、他人の若さ、他人の能力によって、絶えず測られ、比べられ、更新を迫られる。身体は自然なものとしてそこにあるのではなく、見られるもの、整えるもの、遅れを取り戻すもの、壊れていないように提示するものになる。
薬は、そうした身体に現れる。病院の処方箋の上だけではなく、雑誌の美容記事、夜の眠れなさ、仕事前の焦り、鏡の前の嫌悪、誰かと会う前の不安、もっとましな自分でいたいという願いの中に現れる。薬は、病理の側だけにあるのではない。欲望の側にもある。
だから薬象論が見ようとするのは、薬の正しさや危うさだけではない。薬がなぜ、身体を超えるものとして想像されるのか。なぜ、努力ではどうにもならない場所へ届くものとして欲望されるのか。なぜ、ただの治療ではなく、自己を補うもの、自己を演出するもの、社会に戻るための足場として経験されるのか。その像を見ようとする。
弱い救済とは、人生を根本から救うものではない。世界を変えるものでも、人格を完成させるものでも、苦しみの原因を消すものでもない。けれど薬は、今日を通過させることがある。眠れるようにする。外に出られるようにする。人と話せるようにする。仕事に向かえるようにする。自分が壊れているという感覚を、少しだけ遠ざける。
その救済は、英雄的ではない。清らかでもない。依存や副作用や制度や市場に巻き込まれ、いつでも危うさを帯びている。それでもなお、人が薬の名に耳を澄ませるのは、そこに、努力や理性や自然な身体だけでは届かない変化の気配があるからである。
薬は、治療する物質である。だがそれだけではない。薬は、変われるかもしれないという期待の名であり、壊れかけた自己をひとまず今日の平面へ戻すための補助線であり、都市の中でイメージと比較にさらされた身体が、なお自分を保とうとするときに呼び出す、未知の力の名である。